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中町フジグランド他

郡山発17:15、会津若松着18:30、
改札を出てジャン妻がホテル予約メールを確認したら、駅前のフジグランドじゃなくて七日町の野口英世通りに面した中町フジグランドだった。
タクシーを待ってホテルへ向かい、チェックインしたら部屋にデカいあかべぇが鎮座している。夜通し不寝番をしてくれるらしい。
こんな旧いホテルだったかな。壁が薄いのか、隣の声が聞こえるのよ。隣が聞こえるってことはこっちの声も隣に聞こえるってことでさ。隣で男女の睦事でもやられたらカナワンな。
フジ1客室1
フジ2客室2赤べえ
で、麦とろに行って、戻ってきて、酔ってはいるけどフロント掲示してある朝食写真(イメージ)を見たら、どうしても期待できそうには見えないのね。和食も洋食も。
いいや期待できなくても。ネタにすればいいやって思って寝たのです。
眠りにつく前に思った。このホテル、前に泊まったことはあるが、確か後悔して、もういいや、他にしようって思ったんじゃなかったかなぁ。
朝が来て、外の景色を見てみたらこんなロケーションで、
フジ3客室3朝
フジ4部屋から1フジ5部屋から2
絶句しました。まぁ酔っ払って寝るだけだからホテルのお向いんが何でもいいんだけど。廃ビルかねこれ。
長期滞在だと気が滅入るな。開けた窓の桟も剥がれかかっていたしな。
フジ6窓EVTから
1階の朝食会場に行こうと支度していたら、隣の部屋からカラカラカラカラ音がするんですよ。トイレットペーパーの音なんです。もう冗談じゃないよね。
だがまだ続くのです。朝食会場に向かいます。
会場1会場2
会場3会場4会場5会場6会場7
いやぁ、ダダっ広いねこれは。
無駄に広いね。昭和の頃の団体旅行最盛期のままなんだと思う。
窓の外は駐車場になっていて丸見えです。
会場8
学校給食で働いているようなオバちゃんが元気印で持ってきた重箱膳、長い箱が2段重ねになっていて、パカッと開けたら、
朝飯1朝飯2
朝飯4朝飯3朝飯5朝飯6朝飯7朝飯8朝飯9朝飯10
品数はある。ボリューム感があるようにも見えるが、全部が作り置きで冷え冷えのお惣菜たちでした。
焼き魚は皮が剥がれてカピカピ、豚肉の焼き物もカピカピで脂が固まってるし。
ホテルのバイキングに慣れると逆に興醒めしてしまった。
こづゆ、丸麩なんだ。麦とろや蕎麦宿で出されたこづゆには麩なんて入ってなかったぞ。丸いのは大豆だったし。
味噌汁も冷めていて、具は私の苦手な茄子だった。
朝飯12こづゆ
せめてもう少し温めてあったらなぁ。
朝飯11冷えた味噌汁と茄子
「ありがとうございましたぁ」
「お気をつけて行ってらっしゃいませぇ」
オバちゃんたちのそのひと声で救われたよ。フロントも感じはよかった。旧い、ボロい、壁が薄い、とかイロイロ言われてるんだろうけどね。
お腹一杯になったかというとそうでもない。何故かな。昨夜の麦とろの肴がヘルシーだったからかな。
部屋のあかべぇ君のアタマを撫でて、
「世話になったな」
「旧いホテルでごめんなさい」って言われたような。
会津観光拠点のひとつでもあるのだから、もう少し手入れをして頑張った方がいいと思います。
フジ21無駄に広い
フジ22
蕎麦宿に入る前の午前中の時間潰し、鶴ヶ城本丸に向かうこの道は郭内に乱入した新政府軍が大手へ向かって攻め入った道ではないか。そして北出丸で八重さんたちの反撃を受けるわけだ。
宮泉酒蔵や西郷亭を過ぎて本丸内に入るわけですが、途中にあるラブホは何とかならんのかと思う。
北郭と大手門へ通じる道1北郭と大手門へ通じる道2
外人さんが多い。大陸、半島、島の人々、インバウンドの復活だろう。見に来てくれるのは有難いけど誰もマスクなんかしてないですね。
前を歩いているグループさんが突然立ち止まって自撮りしたりするもんだから、すぐ後ろを歩いてるこっちは躓いたりする。
ジャン妻は焦れて、私を置いてサッサと追い抜いて行ってしまった。
「早く来なさいよ」
「何でさ?」
「人が多いのがイヤなの」
多い人の中には私らも含まれてるんだぞ。

天守は見上げただけです。入ってません。令和になっても会津が訴える観光や史観は戊辰なのです。
二の丸、三の丸に行きたかったのだ。今まで足を踏み入れたことがなくて。直に行ける廊下橋が工事して歩けないので一旦公道に出て県立博物館方面へ迂回したのですが、その博物館と球場、競技場が三の丸だった。
鶴ヶ城天守
圧巻だったのは二の丸の空堀、
空掘1空掘2空掘3空掘4空掘5こっちは水堀だった
石垣よりも、白亜の楼閣や天守、櫓よりもこういう土でできた塞に萌えます。
「これ、水が干上がった堀じゃないの?」
「・・・」
二の丸土塁1二の丸土塁2
二の丸土塁3
二の丸の土塁を見て、博物館で時間潰したのですが、特に興味を惹くものはなあった。WC借りに入ったようなものでした。
博物館の東にあったのがこれ。
イメージ湧かないな
これの何処がどうなって堀なんだろう。
バス来ないぞ
あかべぇバスで若松駅に戻ろうとしたけどバスが来ないのだ。
ラッキーなことにちょうど通りかかったタクシーを捕まえて若松駅へ。
そしたらジャン妻が突然、ラーメン食べたいと言い出して。。。
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麦とろの夜

会津若松「麦とろ」は会津鶴ヶ城の遺構、甲賀町口門の裏手にあります。口門とは鶴ヶ城に16ヶ所あった郭外と郭内(城外と城内)の境門のこと。
「八重の桜」で、家老の田中土佐(演、佐藤B作さん)と八重の父、山本権八(演、松重豊さん)が、城下に雪崩れ込んできた三角帽子の新政府軍兵を迎え撃った最初の交戦シーンが描かれた場所であります。
甲賀町口門1甲賀町口門2
甲賀町口門3
店は3階建て、2階は宴会場、3階は住居であります。
店4
店は郭内だから武家屋敷の跡地にある。調べてみたら多少のズレはあるかもしれないが、会津藩家老、上田学太輔大学という人の屋敷跡らしいのだ。
上田家の家禄は600石、相当な上級士分であります。
この上田家老、城外南の一ノ堰、現在の会津鉄道の雨屋駅付近、そこは灌漑の堰以外に遮蔽物の全くない平野部なのですが、城外からの補給路を確保しようとして出撃した。
率いるは白虎隊寄合隊他の諸隊、2連戦して局地戦とはいえ新政府軍を撃退した。会津戦争で数少ない勝ち戦の将校だった人なのだ。
戦勝後、寄合少年兵たちを士中1番隊に昇格させた粋な家老であります。
(白虎隊は足軽、寄合、士中の3階級あって、ドラマでよく取り上げられるのは士中2番隊、戸の口原から飯森山のあれですね。
士中1番隊は甲賀町付近の敵の網を破って城内に帰還しています。
白虎隊最初の戦死者は越後戦線の足軽隊、寄合隊は城外で敵軍を食い止め補給路を確保せよと。城へ還るなと言われたようなものだ。)
下の地図、だいたい位置関係がわかりますかね。
甲賀町口門と麦とろMAP
甲賀町口門から細い道が西に延びて、カクンとクランクに折れ曲がっています。そこに600石の上田学太夫の屋敷があって、現在の麦とろの位置とだいたい一致します。
麦とろは家老の屋敷跡にある
「麦とろ」は描かれる会津戦争の古戦場だが、近代戦に近いから昔の合戦ともいえない。
でもそれだけに生々しく、昔の合戦譚のような創作を許さない側面があると思う。
店1店2
大田和彦氏の著書で知った。その冊子には静岡の廃屋酒場「紀尾井」も載っていて、今も自室の書棚にあるが、発刊時期を見たら2000年11月だったな。
店内1店内2店内3
料理はお任せで、イカと大根厚揚煮、山菜、卵焼き、こういう家庭料理ばかりであまり体に悪いのはでない。馬刺だって普通に売ってますから。
「普段、東京で美味しいモンばっか食べてっからこういうのが食べたくなるんだべ」
店主も自信満々で鼻息が荒い。
「今日きてよがっだぁ。明日は満席で」
満席、宴会?
「ほぼ貸切」
「2階も?」
「そう、2階も」
「手伝いは?弟さん?」
「パートさんが来ることになってんべ」
今、私らが食べてるのもそうだが、予め用意してあった惣菜を切って出すだけなのだ。
「麦とろ」は窓を開け放しちゃえば換気がいいのでアクリル板は置いてない。「ああいうのはスナックみたいに狭くて換気がよくない店にしか効果がないって」だそうである。
「コロナ罹ったんけぇ?」
「罹りました。12月に」
「あ、そう。2人とも?そうなんだ。ウチのお客さんは未だ大丈夫なんだけど、他の店では・・・」
スナックとかそういう狭い店ではポツポツ出てるみたいだ。
地方都市なので東京との温度差も感じた。コロナは昨日から5類になり、昨夜の店はノーマスク率100%だったからね。
「麦とろ」のこの日は3月末の記事ですが、店ん中で、もうすぐ5類になる、保険適用になる、インフルエンザは季節が限られるがコロナはそうはいかない、町のクリニックでも診ることになる、マスク着用のお客さんは「このマスクは花粉症だから」、そういう話がカウンター越しに飛び交った。
料理1料理2料理3山菜料理4以下大根厚揚煮料理5玉子焼き
大田和彦氏が日本一と絶賛した馬刺、明日も蕎麦宿で馬刺出るんだよね。
「明日いつも行く蕎麦宿さんの馬刺とどっちがいいですか?」
そうですねぇ。蕎麦宿さんの方がキレイですね。いい意味で麦とろさんのは荒々しいです。料理6馬刺1料理7馬刺2料理8馬刺3
馬刺、桜刺、蹴飛ばしとも言いますね。
これも太田氏が「目が醒めるような」と大絶賛した鰊山椒漬、
料理9鰊山椒漬
大好きなアサツキ、これも明日の蕎麦宿で出されたな。
料理10あさつき酢味噌
何故かカレイの煮付が出た。これも蕎麦宿の朝に出ました。何だか被るな。偶然かな。
料理11カレイ
カボチャの煮物、ジャン母(故人)によく食べさせられた。
店とは年賀状の遣り取りもあるのですが、この1年間がジャン母の喪中だったのでその挨拶を出しています。
「お母さん亡くなったんけぇ?」
「昨年、喪主しましたよ」
この記事を起案している週末に1周忌です。
それと、私の一身上の変化をお話して、
「ええっ?定年けぇ?」
そうなんですよ。そうは見えないのかな。
「そっかぁ。でもまだ働くんでしょ?奥さん(ジャン妻)は?」
「アタシは昨年暮れにとっくに還暦」
「ええっ!旦那さんと違ってそうは見えんけんど」
今日までとうとうウチの会社が会津若松に出店!なんてネタはなかった。あったら挙手したのにな。
料理12カボチャ
2013年の梅雨の頃だったかな。この店で、リアルタイムで「八重の桜」の会津籠城編を観たときの写真が残っていました。
全くの偶然でたまたま放送日が重なったの。
店内の冷蔵庫の上にあるTVに容保公が映ってる。
TVには容保公が
八重を観る婆ちゃん
この後、小田山から城内に打ち込まれたアームストロング砲の砲弾を、山川大蔵(演、玉山鉄二)の妻、登勢が焼き玉抑え(不発弾に濡れ布団を被せて爆発を止める)に失敗して砲弾が破裂、命を落としたシーンに婆ちゃん(店主の母御)目頭を指で拭ったのを覚えている。
写真に写ってる婆ちゃん(店主の母御)はもう店にいない。まだお元気ですが別の場所にいます。御年100歳に近くなったらしい。
戦場に立つこの店で、会津戦争を生で観るなんて凄いものがあるけど、店主曰く、
「この場所は激戦地だったかんなぁ、今でも戦死者が埋まっでんだぁ」
今でも埋まってるかどうかはわからないが、その戦死者について、新政府は埋葬を許さなかったとされてた従来の説を近年になって見直されつつある動きや発表もあった。
「戦死屍取仕末金銭入用帳」を基にした「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実」(野口信一氏)がそれです。これまでの会津史観に一石を投じたと思うがその後どうなったのかな。

フキノトウの天ぷら、
ジャン実家の庭の一画はフキの葉だらけで凄いことになっています。
フキノトウ1フキノトウ2
今でも居酒屋番組の取材のお話は来るそうだが、お断わりしているみたい。
「お馴染さんに迷惑がかかるし、そんなのに出なくても充分、お客さん来てっから。」
「皆さんとご一緒した時間を心の中に記念に飾っております」そう言って、著名人の色紙も固辞しているそうである。
出されたお酒は、天命、風が吹く、男山、泉川、などなど。
南会津の銘酒「花泉」を店売りしていたことがある。花泉の蔵人が最初に売り込みに来たとき、若松には合津誉、磐梯山、花春、男山、有名どころがたくさんあるから「花泉?何だ?それ?」歯牙にもかけられず置いて貰えなかったとか。
だったらいいよと臍を曲げた。
「良くも悪くも会津人はそういうの忘れねぇんだ」(店主)
私が知る限り、置いてある酒屋は湯野上温泉の踏切の袂にあるW酒店だけです。なので若松市内で「花泉」を見かけたことはないです。このネタで熊猫氏に、東葉勝田台の居酒屋で話しかけたのがきかっけでしたかね。
酔いが昂じてか、カウンター向こうに若松市内に転勤してきた男性がいて、話しかけて来る会津自慢が少々うるさくなってきた。いい人なんだけど、私も知ってるネタばかりなんだもん。
料理16空いた皿
店3
ジャン妻は55歳のとき、現況の業務に迷いが出て、無謀にも惣菜屋さんに転じようとしたことがある。
その修行候補が幾つかあって「さらの木」「紀尾井」安中の「104」そしてここ「麦とろ」も候補だったのよ。相談したんだもん。
上層部の引き止めで撤回せざるを得なかったんだけど、今になって「あのとき決断しときゃよかった」って言うときがあるね。
「あんとき、もしウチに来るんなら、上(3階)に布団しかなきゃって用意しといたんだけんどなぁ」(店主)
さて、夏頃の再会を訳してホテルに戻って、
麦とろから戻ってきたところ何だか美味思想に見えない
ETVに貼ってあったのですが、明日の朝食写真イメージです。
ルートイン羽生や、私も泊まったホテル・・・何処だったか忘れたが、明日の朝食メニューをフロントやEVTに貼ってあったりする。明日の朝のお楽しみに備えて夜の暴飲暴食を抑制する効果がある。
でもこれはどうだろ。酔眼でも何となくわかる。予約はしたけどあまり期待できそうにないなぁと思った。。。

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